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峠考 「魚尾道峠」その2

投稿日 2016年11月09日

前回の峠考 「魚尾道峠」では、坂本と魚尾道峠、神流川の魚尾地域の位置関係から魚尾道(よのおみち)がどのように付けられていたかを想定してみました。

 

私が参考にする資料は佐藤 節さん著の「西上州の山と峠」しかありません。前回はこの本の二子山についての記述を根拠に魚尾道について考えてみたのですが、改めて本を読み返してみると、「廃村の春 魚尾峠道から叶後へ」の編に魚尾道について詳しく書かれているのを発見しました。(最初にここを読むべきでした。トホホ)

 

氏は、四方を山に囲まれた小平地。山合いの仙境叶後(叶城)(かのうじろ)に心を寄せて、昭和41年の3月に坂本から魚尾道峠を越え、魚尾道を叶後から神流川の宮地まで歩いています。その行程は4時間だったようです。

そのときの叶後はすでに廃村。人の住まなくなったさびしい土地でも、変わらずサクラが咲き、山吹が花を散らし、鳥が歌っていたと書かれています。

 

さて、肝心の魚尾道がどのようなルートを辿っていたかは、その編に以下のように書かれています。

 

「志賀坂口坂本から、河原沢川最奥の魚尾道の部落をあがり、股峠道と分かれて、明治の大クエのへりを急登して達する県界の乗っ越しが魚尾道峠で、バンジ沢沿いに叶後に下り、牢門(牢口)の東壁丸岩に終わる二子尾根を丸岩峠で越して、神流川辺の宮地へと通じています。」

 

ここに出てくる「明治の大クエ」とは何でしょう?へりを急登とあるので、これは明治時代からある大きな「クワ」の木かも知れません。山桑は大きく成長するものがあるようです。 おそらく現在の民宿登人近くにあったのでしょう。他には「バンジ沢」「二子尾根」「丸岩峠」が私にとって新しい地名です。

 

補足(2016/12/05)

小鹿野町在住の方から「クエ」について、教えていただきました。二子山周辺の地域では、山中の崩壊か所を「クエ」というそうです。「明治の大クエ」とは明治時代に大きく崩壊したか所が二子山にあったのではないかということです。

 

補足(2018/01/08)

「明治の大クエ」について情報をいただきました。国土地理院の旧地図に記載されているとのこと。大正から昭和27年ごろまでの地図に記載されており、その位置を確認しました。それによると、魚野道の集落の上に縦に細長い崩壊個所が描かれています。佐藤 節さんが書いているように、正にそのヘリを急登する形がよくわかります。現在の地図ではすっかり地形に組み込まれたのか、崩壊地としては描かれていません。

 

 

上の文章でほぼ確定ですが、ひょっとしたらと思って手持ちの古い国土地理院地図を引っ張り出してみたら、ありました。昭和50年発行 「両神山」1/25000 地図に魚尾道の破線が引かれています。魚尾道はすでに廃道のため現在の地図には記載されていません。ちなみに国土地理院の古い地図は、http://www.gsi.go.jp/tizu-kutyu.html の図歴(旧版地図)で閲覧できます。解像度を落としてありますが道形は確認できます。地図域は「両神山」1973(昭和48年) 83-4-4-1Cを見てください。これの次の版ではすでに道形は消えています。

峠考_魚尾峠02.jpg

昭和50年発行 国土地理院 1/25000地図 「両神山」より

坂本から神流川方面(上方)まで延びている黒破線が「魚尾道」

書き込みご容赦


新たに分かったのは、魚尾道峠から叶後に流れ下る沢を「バンジ沢」、二子山西岳西端から丸岩(円岩)まで延びる尾根を「二子尾根」、二子尾根と丸岩の接続部分の鞍部を「丸岩峠」と佐藤 節さんは書いてます。下の図を参照してください。丸岩峠から丸岩へも登れたようです。また丸岩峠を越えた向こう側の沢を「大窪沢」と呼んでいます

峠考_魚尾峠03.jpg

現在の地図に魚尾道を投影してみました

赤破線が魚尾道

神流側沿いの山村と小鹿野をむすんだ最短ルート

(国土地理院電子国土地図に情報追加)

 

前回の想定ルートは、叶後から牢門(牢口)を通って神流川側に出ると想定しましたが、実際のルートは叶後からわざわざ丸岩峠に登り返し、反対側の大窪沢側に越えて宮地に出ています。牢門の神流川側は少し急峻ですが、通れなくもないように思いますが、なぜか使わずに、丸岩峠に登り返しているのです。その理由は何か?牢門は叶後に流れ込むバンジ沢他数本の沢の水を集めて牢?から流れ出る場所ですから、実際には通行不能だったのかも知れません。

 

現在盛んに石灰岩の採石が行われている叶山鉱山により入山が規制されているため、「魚尾道」の痕跡を確かめようがないのが残念です。せめて魚尾道峠に立って、古人の往来を想像するしかありません。

 

佐藤 節さんによれば、車の通れる志賀坂峠道が開設される前、魚尾道は神流川沿いの村と小鹿野をむすぶ捷路(しょうろ)であったようです。コンニャク芋や炭俵などの重荷を神流川沿いの村や、遠く下仁田まで担ぎ運んだ生活があったことを、せめて記憶に残しておきたいものです。


 

 

(熊五郎)

コメント(6)

  • 難しいですね。トンチンカン。イヤ違ったちんぷんかん?花咲く峠道を馬の背に乗ってお嫁に行ったっていうようなイメージしかない人なのでご容赦ください。

    とりあえずそれでも昔は何をするにも大変な思いで峠を越えたのでしょう。小学校の教科書には韓国の「三年峠」というお話が出ていて面白かったです。(agewisdom) 2016/11/9(水) 午後 5:48

  • 花嫁も越えたでしょうね。埼玉の秩父や、西上州界隈は地図をご覧になると、ものすごく小さな集落が点在しています。今も名が残る峠や石仏、祠などが多く残っています。大事にしたいものです。(熊五郎) 2016/11/10(木) 午後 1:45

  • はじめまして。先日、大窪沢から丸岩峠に行ってきました。大体、過去の地図の通りです。尾根を乗り越す部分は道型が残っていたのですが、途中はほとんど鹿の踏みあとのような感じで、下部は全く道は残っていませんでした。下部は、崩れやすい斜面を直登するので滑落の危険大です。牢口はゴルジュで、熟達した沢登りの技術が無いと突破できません。叶後については、原全教の「奥秩父回帰」にも載っています。 [ Sugi ] 2017/5/31(水) 午前 7:50

  • > Sugiさん 情報ありがとうございます。この近辺は太平洋セメントによる入山規制がかかっていると思いますが、丸岩峠までは行けたようですね。私も機会があれば見てきたいものです。原全教氏など大正から昭和にかけて活躍された登山家たちが一夜を過ごした叶後は見る影は無く、寂しい限りです。(熊五郎) 2017/5/31(水) 午前 8:58

  • 明治の大クエは大正元年測図「万場」に描かれていますよ。

    http://stanford.maps.arcgis.com/apps/SimpleViewer/index.html?appid=733446cc5a314ddf85c59ecc10321b41 

    峠の犬 ] 2018/1/8(月) 午後 5:11

  • 峠の犬さん 情報ありがとうございます。「明治の大クエ」の位置を確認しました。国土地理院の旧地図の閲覧によると、昭和27年までは描かれていますが、50年にはすでに記載されていません。細長く、結構大規模な崩壊の様子がわかりました。(熊五郎)  2018/1/8(月) 午後 6:46

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