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原 全教著「奥秩父回帰」冬の初旅

投稿日 2022年10月18日

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原 全教著「奥秩父回帰」

1978年5月25日発行

原 全教(はら ぜんきょう)氏は、1900年石川県輪島市の生まれ。1922年ごろより奥秩父を中心に関東中部山岳全般にわたり山行をつづけた、山旅の達人であります。とくに奥秩父を深く愛され、著作「奥秩父」を著わし、さらにこの「奥秩父回帰」1978年刊を持って、約50年前の奥秩父の山旅に回帰され、1981年に没しています。

氏は「奥秩父回帰」の序の冒頭で、

「山旅の印象は、生活上の雑多なできごとやほかの趣味娯楽にくらべてもはるかに鮮やかでいつまでも美しい」

 

と、書いています。Wikiによれば若い頃は印刷会社を経営。兵役。その後バーや焼き鳥屋の経営など、俗界に身を置きながらも、こよなく奥秩父の景観、風俗を愛した人であります。

そして、昔の旅人といわれる多くがそうであるように、原 全教氏も土地の人の話、史実とその確認を旨として歩いている点で、単なる紀行ではない点が共感を呼び、今では貴重な記録といえます。

「必ず里の長老を訪れて山の地名、地理を質し、里や家々に語り伝えられた里談を聞くことを務めた。実地を踏んではその知識を確かめるために二度三度訪問を重ねるうちに、いつしか親近を加え思い出は深まった」

とも述べています。

では、「奥秩父回帰」の目次を記します。

奥秩父と私 --- 序に代えて

山里今昔 --- 山・谷・峠・里・人

奥秩父の初旅 (大正十五年九月二十六日から十月三日)

冬の初旅 (昭和二年十二月二十九日から三年一月三日)

第二回の冬旅 (昭和三年十二月二十八日から三年一月五日)

第三回の冬旅 (昭和四年十二月二十八日から五年一月五日)

奥秩父の主脈

神流川街道を往く

秩父事件遺聞

​奥秩父回帰

(昭和二年は西暦1927年)

ここで、目次のなかから「冬の初旅」の軌跡を追ってみたいと思います。

原 全教氏は昭和二年十二月二十九日から、明けて三年の一月三日までの6日間。秩父から西上州にかけての山旅をして、その回帰として「冬の初旅」を著してます。総歩行距離160kmに迫る山旅の軌跡はどのようなものだったのでしょうか。

 

都内に住んでいた氏は、「飯能」(はんのう)まで交通機関を使い、そこから五里(地図上での計測では約22km)名栗川沿いを名郷手前の「人見」まで歩いたと記している。この間、特に道中の記載はない。二十九日は人見の松屋という旅館に泊まっている。

この松屋という旅館については、かなり由緒ある旅館だったようで、明治十五年にこの地を旅の途中に通過した「アーネスト・サトウ」が鷹ノ巣の松屋旅館に泊まったとの記録がある。ただし地図上、鷹ノ巣は人見の1kmばかり手前なので同じ旅館かどうかは不明。

翌十二月三十日、名郷から酉首峠方面への道に入り、途中妻坂峠に向けて「山中入」に入いる。「入」(いり)とはこの地方で谷筋のこと。「山中」の集落を見て妻坂峠に立った。山中に「鍵掛の奇勝」があったと書いているが、地図上どこか確認できない。妻坂峠には、氏も見たであろう、山中集落の人が延享四年に置いた地蔵が今でも鎮座する。

妻坂峠からは防火線に沿って大モチ山(大持山)へ向かった。この防火線というのは、妻坂峠と大持山の南寄りのピークまでの尾根上部の刈り払われている部分を言っていると思われる。この当時から防火のために刈り払われていたようで、現在でも十数メートルの幅で左右の樹林との間に隙間が空けられた斜面になっており、空を見上げながらだらだらと登る。

大持小持の稜線を辿って武甲山に登った氏は、山頂から大宮の町(現在の秩父市)の街並みを眺めて、この山の地位を知ったと述べている。武甲山は秩父のシンボルだが、山にとっては不幸にも良質の石灰岩でできていため、鉱山会社が掘削するところとなり、現在では山頂部から北面がかなり削られている。大正十四年に西側の三輪鉱山が掘削を開始したようだが、氏が通過したときはどの程度掘削が進んでいたのだろうか。

武甲山頂で眺めを堪能した氏は橋立方面に下っている。橋立には四、五軒の民家があり、岩尾根の末端に「石竜山橋立寺」があったと記している。現在、秩父二十八番札所「橋立堂」として、境内から岩壁基部の鍾乳洞も見学できる。

荒川沿いに出た氏は、往還の宿場「贄川」(にえかわ)から「強石」(こわいし)へと足を進め、暮れても歩いて八時過ぎに大滝村の「落合」に到着した。大滝村役場近くの「伊豆屋」をこの日の宿としている。名栗の人見から落合までの距離は、約33km。しかも武甲山を越えているので、なかなかの健脚ぶりである。冬の旅はただでさえ日が短かい。暮れ行く往還を急ぎ足で落合に向かったに違いない。

翌日「落合」を発って中津川に入る。荒川本流は落合で中津川を分ける。本流は二瀬ダムから栃本に向かい、滝川となって雁坂峠にせり上がる。甲州へ抜ける往還は本流に沿って通っている。一方荒川本流と分かれた中津川は、中津峡谷となって激流が岩をうがつ難所である。明治まで中津峡谷から上には道が無く難所であった。氏が歩いたころも大変心細い道であったと想像される。今でも車で通過するも、両岸迫る峡谷には圧倒される。氏は途中「塩沢」という集落を通過しているが、今は滝沢ダムの奥秩父もみじ湖となっていて、ダムの底に消えた村落である。中津川の峡谷を奥へと進み「中双里」(なかそうり)の民家を見て、「石舟沢」、「センドウギ沢」を過ぎて神流川に入った。この神流川は群馬の神流川ではなく、埼玉県側の両神山西面から金山鉱山周辺の水を集める川。

​金山鉱山から来る金山沢を見送り、積雪の中「六助沢」を登る。この時代はまだ炭焼が盛んで、六助沢付近にも十世帯暮らしていたとのこと。上州へ越える道は炭焼きが越えるため明瞭だったようだ。氏は六助沢の源頭の家で暮らす母親と娘、幼子に出会っている。以前赤岩峠から山吹峠まで県界稜線上を歩いたときは、この六助沢に道があったことは承知していたので、いずれ歩いてみようと注意していたものの、結局どこに道形があるのやら皆目見当がつかなかった。六助沢に暮らしがあったとは、今では信じられない。

氏は六助沢から群馬県側へどこをどのように辿ったのか、詳細明らかでは無い。おそれく踏み跡は明瞭で、書くに及ばなかったのかも知れない。野栗沢沿いに、十石峠街道、今の国道299号、462号の走る神流川の街道筋に出て、「新羽」(にっぱ)の「東明館」に泊まった。新羽は野栗沢川が神流川に合流するところで、「乙母」(おとも)手前の勝山の集落である。この日の歩行距離はざっくり28km、雪の県界越えであった。

翌朝、旅館の窓越しに雨戸を開ける女中に教えられて「笠丸山」を眺めた。すぐ川上の「勝山」から「檜峠」を越して「乙母」に下った。標高634mのピークが神流川にせり出して、街道筋が湾曲しているのを避けて、勝山から「檜峠」を越えたのは面白い。よく地形を見ているし、現地情報もあったのだろう。「檜峠」には今でも「乙母」に下る道がある。

 

氏は「乙母」から「住居附」(すもうづく)を通過、「桧沢峠」に出た。峠からは今で言う「西上州」となる。「大入道」「桧沢」の里を下って南牧川に沿う余地(よじ)街道に出た。ここでいう余地街道は源頭が余地峠下に消える南牧川に沿った道という意味と思われる。余地街道は中津川に比べて明るいと感想を述べている。この日は上流の「勧能」の「天野屋」に宿を求めている。「勧能」(かんのう)は南牧村最奥の山里と言ってもよく、すぐ上の余地峠はもう長野県である。

南牧川は「勧能」の先で熊倉川と馬坂川に分かれる。余地峠の熊倉川には入らず、馬坂川に入る。「馬坂」の集落から上、田口峠にかけては、県界の長野県が奇妙に群馬県側に降りてきている。氏はそれにまつわるエピソードをこのように書いている「昔、峠(田口峠)向こうの田野口の領主が、絶えず強引に領界を押しすすめ、上信の界が尾根からこの三尺ばかりの小沢までさがって、馬坂に上州分と信州分ができ、今も上州の蔓に信州の南瓜がなったり、学童が二手に分かれて通学する破目になった。とはゆうべ天野屋の主人の話」。今でもこの長野県地域に住む人たちは、電気、水道、郵便、学校、役場など、長野か群馬かどちらをつかっているのだろうかと考えてみる。最も海から離れた内陸ということでも面白い地。この日の新羽から勧能の距離は約26kmだった。

翌、勧能から馬坂川に沿うて「広川原」向かうが「田口峠」へは登らずに、「立岩」(たついわ)寄りに歩き、「星尾峠」(ほしおとうげ)に出て、更に荒船山(あらふなやま)の最高点「経塚山」に登っている。氏は、「経塚山が舟橋とするならば、北へのびる平は甲板、谷へ切りたつ壁は船首となり、名前の通り巨大な難破船に見立てられる」と言っている。氏の時代はどう呼んでいたかは書かれていないが、今は北端の岸壁を「艫岩」(ともいわ)と呼び有名である。艫は船の船首とも、船尾ともとらえられる。さて、荒船山の艫岩は船首であろうか、船尾であろうか。

荒船山からは西へ炭焼径を下って「荒船不動」へ参拝。初夜ノ湯(初夜鉱泉)をこの日の宿とした。この日の歩行距離は約21kmだった。荒船不動は現存する。

初夜ノ湯から高山峠(熊倉山の北側)を越えて荒船山の岸壁(艫岩)の下から「小屋場」、「市野萱」へと辿り、高石峠(御堂山の北側)を越えて妙義山懐。妙義神社に参拝して行田(おくなだ)から松井田の駅へ出た。駅前のそばは信州風でおいしかったと記している。最終日の歩行距離は約29kmだった。

歩行距離

東飯能 - 名栗人見 20km

名栗人見 - 大滝村落合 33km

大滝村落合 - 新羽 28km

新羽 - 勧能 26km

神能 - 初夜ノ湯 21km

初夜ノ湯 - 松井田 29km

総歩行距離 約157km

宿泊した宿

名栗人見 松屋

大滝村落合 伊豆屋

新羽 東明館

勧能 天野屋

​初夜ノ湯

 

冬の初旅 (昭和二年十二月二十九日から三年一月三日)は原 全教氏が28歳の頃である。若く血気盛んな頃だが、冬に160kmの距離を歩きぬくにはかなりの精神力と体力が必要だったと思われる。この頃は主要な鉄道と、地方の軽便鉄道くらいはあったが、それでも山旅のほとんどは徒歩でなければならなかった。氏は地図を片手に、旅先で得た情報とともに、事前の計画どおり歩けるか確認しながら歩を進めている。幸いにもこの頃、山奥の主要な峠などはよく踏まれていたようで、道に迷うようなことは少なかったようだ。現在は、山奥の峠などは山好きしか通らず、道形が消えようとしているところも多いが、氏の頃はまだ炭焼きなどが村間を行き来することが多かったのだろう。宿も意外に、山奥でも各所にあったようで、これはたとえば薬売りや旅芸人などの利用が多かったのではないだろうかと想像する。一般の家でも宿を提供したりしていたようだ。宿賃は1円内外。山間の農家にとって、宿の提供はよい副収入だったに違いない。そのような民家に泊まることによって主人や長老から話を聴くことができたのも、このような旅のよさである。

 

 

(雅熊)

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