潮騒を歩く 入山前日のロマンス

​​投稿日 2022年06月30日

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三年ほど前だったか。そのときここを訪れた日も、今日のような暑い日だったのを思い出す。今は午後の一時。まだ少し早いのだが、こう暑いのではどこにも寄る気がしない。宿にお願いして入れてもらうことにしよう。車を今日の宿に向けて走らせる。

見覚えのある玄関。ガラガラガラと開けた引き戸は以前と違わない感触だ。足元のアロエの鉢に気を付けて、

 

「ごめんください....」

 

「お久しぶりですね。ようこそお越しくださいました。」

 

この宿は仲の良い夫婦がやっているこじんまりした民宿だ。仕込みをやっていたのか、厨房から懐かしい夫婦が現れた。

 

「またお世話になります」

 

最初は気づかなかったが、奥さんのエプロンに隠れて、かわいい少女が顔だけ出している。

 

「よろしくね」

 

お孫さんだろうか。少女はけげんそうな顔で、ウンとうなずいた。壁にかかった大きなウミガメのはく製が懐かしい。

 

「今、お部屋にご案内しますね」

 

「明日、山に登られるの?」

 

「はい」

 

「晴れるといいわね」

 

階段をトントントンと駆け上がる奥さんの後に続く。到着が早かったせいか、部屋にはまだエアコンがかかっていなかった。以前もこの二階の部屋。カーテンを開けると、隣家の瓦屋根が目の高さに見えるだけ。一流ホテルのような展望はない代わりに、実家に帰ったような感覚になる。

 

「遠いところをお疲れ様でした。」

 

「いやぁ、運転は嫌いじゃないので....」

 

「ちょっと道が混んでましたが、どこにも寄る気がしなくて、ここに直行です。」

 

「まぁ、そうですか。こう暑いんじゃねぇ。」

 

「今日はお客さんお一人なんで、ゆっくりしてくださいね。」

 

「お昼寝でもされたら?」

 

そう言われたとたん、あくびが出てきた。自分では疲れてないつもりだが、やはり長距離ドライブは体にこたえる。まずはお茶でもいただこうか。と思ったが、この暑いのに熱いお茶はいただけない。まずは、少しラフな服に着替えるか。そう思っていたら、奥さんが冷たい麦茶を持って上がって来た。

 

「あれから三年ですが、何か変わった事でもありましたか。」

 

「そうね、ご存じだと思うけど、あのおばあちゃんが亡くなって.......。それと台風19号で、この辺も水が出て一時大変でしたわ」

 

「うむ、そうでしたか」

 

「おばあちゃんは、いろいろこの辺のことについて教えてくれました。残念です」

 

そんな会話をしていると、どこかで雷鳴がしたような気がする。今日はどこに行く予定もないし、昼寝を決め込むか! と、言うが早いかゴロン。横になってウトウトしていると、空模様が怪しくなってきた。ひと雨来てくれればこの暑さも少しはマシになるかもしれない。そんなことを思っていると大粒の雨が落ちてきて、隣家の屋根瓦を激しく叩き始めた。雷は強烈なのを一発近くに落として、ものの十分くらいで去って行った。私は、夢うつつの中で遠雷を聴いていた。

 

二時間くらい寝たであろうか。私の体にはいつの間にかタオルケットが掛けられていた。エアコンも少し弱くしてくれたようだ。

 

時刻はまだ三時過ぎ。外はギラギラ太陽だが、さっきの雨のせいで少しは遠慮がちな陽光になっているように思えた。

 

「奥さん、ちょっと海岸まで散歩してきます。」

 

「寝てる間に.... ありがとうございました」

 

さりげない心遣いに感謝した。

 

「はーーい、行ってらっしゃい!」

 

奥から、奥さんの澄んだ声が聞こえた。外に出たら、近くに迫る山からうるさく蝉の合唱が聴こえてきた。膝より高く成長した稲で田んぼは青々としている。ときおり、よく揃った稲の面を一陣の風が吹き渡っていく。そのうえで大きなトンボが空中停止。

 

「おいおい、ツバメにやられないようにしろよ」

 

と独り言。飛んで渡れるような細い水路だが、けっこう水量がある。山が近いせいか海がすぐそこというのに、音を立てて流れている。よく見るとモクズガニがあちこちに。中には体が赤いものもいるが、いずれもチアガールのように、手にフサフサがある。だんだんと童心に返る自分を感じながら歩いていると潮騒の音が聞こえてきた。

頭上を舞うトンビが「ピーー、ヒョロヒョロ」と鳴く。青い海に遠い昔から繰り返されてきた引いては返す波。小さなヤドカリが私の前を通り過ぎようとしていた。潮の香りがなぜか懐かしく、磯で遊んだ幼少の頃を思い出す。

宿に戻ると、奥さんがスイカを切ってくれた。

 

「海、見てこられたの?」

 

「はい、何も変わっていませんでした」

 

「右に防波堤が新しくなったのをお気づきになって?」

 

「あ、そういえばケーソンを沈めてあったところですね。」

 

こんな田舎でも、少しづつその風景は変貌する。人間の都合の良いように変えられていくのだ。

「お風呂入れてありますよ。いつでも入ってくださいね」

 

「ありがとうございます」

 

まだ五時で夕食には間がある。私はさっと水浴びのようにお風呂を済ませて、浴衣姿になり、バッグからおもむろに一冊の本を取り出した。

 

それはもう、十年も読み続けているであろうか。岩波文庫 ソローの「森の生活」だ。もう表紙が丸まって、手垢で変色もしている。

いっぺんに読み切れないし、そうかといって飽きたわけでもない。何度も何度も部分的に読み返しては、内容を自分なりに咀嚼する。

下から、奥さんの声。

 

「支度できました。降りてらして」

 

トントントンとウミガメの横の階段をおりる。

 

「こっち、こっち」

 

奥さんに手招きされて入ったのはこの家の居間。奥には立派な仏壇がある。

 

「おばあちゃんのご仏壇ですか?」

 

「そうだけど、いろんな人のなの」

 

私は仏壇の前で手を合わせてから食卓に座った。民宿の一人旅ではよくあることで、客が少ない日は居間に案内されて家族と一緒の食事をさせていただくことがある。かわいい少女が、斜め前にきちんと座って、どれから食べようかと品定めしている。慣れているのか、来客に遠慮するそぶりはない。

食事は豪華ではないが、海の幸と山の幸の混在。けっして無理のない食材だ。しかし、ここでしか味わえない心のこもった料理だ。磯で見かける小さな巻貝は、千枚通しのような鋭利なもので、くるっとひっくり返して食べる。磯の香りが口に広がる。

話を聞くとご主人は船を持っているそうで、若い頃からこの沖で何度もクジラを見たとかいう話でわいた。

部屋に戻ってテレビをつけると、いつもとは違う地域の天気予報。どうやら不安定ながら明日も晴れそうだ。部屋の隅に蚊取り線香があったので、数センチほどに折って、火を付けてみた。久しぶりにパソコンもスマホも使わない。とっぷりと夜の帳が下りて、近くでカエルが鳴き始めた。蚊取り線香の香りの中で、天井の電灯を眺めながら、いつのまにか眠ってしまったようだ。

(雅熊)