句集

「多羅の葉に 託したるは 恋ごころ」  2019.12.12

(たらのはに たくしたるは こいごころ)

​初冬の町外れや、寺の壁沿いを歩いていいると、青々とした大きな葉を付けた木に気づきます。冬でも生き生きとしたその木は多羅葉(たらよう)。字が書ける葉は、葉書の語源とか。古の人は多羅葉の葉に恋文を綴ったのでしょうか。

「香ただよう 寺の縁にて 日向ぼこ」 2019.12.12

(こうただよう てらのえんにて ひなたぼこ)

初冬の古い寺の境内。落葉がはらはら舞う中を歩きます。本堂の横の納経所が暖かい雰囲気の寺もあって、そこには畳が敷いてあってストーブが燃えており、縁側からは暖かい日差しが差し込んでいます。お茶をいただいて、寺の歴史や物語をうかがって、穏やかな時間が流れてゆきます。

「網戸這う 守宮の向こうに 群青の空」  2019.06.12

(あみどはう やもりのむこうに ぐんじょうのそら)

守宮はその家を守ってくれているといいます。ときおり夕刻から夜中に姿を現す愛嬌者です。網戸越しに身体の裏側から手足の仕組やギョロッとした目を観察します。気づけば守宮の背後は群青の空。夏の一日が暮れてゆきます。

 

「古道の越えし山嶺に、ポピーの花びら風にゆれおり」  2019.06.10

こどうのこえしさんりょうに ぽぴーのはなびらかぜにゆれおり)

秩父へ機織などの出稼ぎに入る娘たちも辿った古道がありました。秩父は盆地ですからいずれかの峠を越えなければ入れません。その粥新田峠に近い山上の小広い原にポピーが咲き乱れ、日ごろ峠越えには縁の無い人たちも訪れてにぎわっていました。機織娘たちが想像もしなかった景色が広がっています。

 

「山怪の 入り口なるや 木下闇」  2019.05.28

(さんかいの いりぐちなるや こしたやみ)

山で道に迷い、あげく遭難ということもよく聞かれます。山には怪がある。そんな思いを抱かせる入り口がそこここに開いています。木々の下の暗闇は吸い込まれそうな、そんな怪への入り口かも知れません。

「道端の 地蔵に聞いて 峠越す」  2019.03.04

(みちばたの じぞうにきいて とうげこす)

峠に立つ地蔵。さまざまな表情で通り過ぎる人々を見守っています。幾百、幾千という旅人を記憶に留めていることでしょう。峠を越える人はまだ道半ば。ここまでたどり着けたことに感謝し、これからの安全を祈ってそっと手を合わせます。

「人生の 迷いし辻で ちちぶ餅」  2019.01.03

(じんせいの まよいしつじで ちちぶもち)

人生には岐路がいくつもあるもの。血気盛んにまい進した頃に買っておいたお餅を、岐路に立ったときに食べましょう。そして行く末を占いましょう。

「冬至の朝 水汲みて 侘助を挿す」  2018.12.25

(とうじのあさ みずくみて わびすけをさす)

吸い込んだ空気が胸の隅々を浄化し、触れた水は身体の表面を駆け巡る。そんな清らかな冬の朝。​侘助の可憐な花を一輪挿しに飾ってみました。

「ゼンテイカ 真白き原に 君を呼ぶ」 2018.10.14

(ぜんていか ましろきはらに きみをよぶ)

夏の草原。霞が徐々に上がってゆく中、一面に咲くゼンテイカが見えてきました。このどこかに探している人や、まだ遇わぬ人が居るような気がして、思わず呼びかけしまいました。

「みどり濃く山を隠すや迎え梅雨」 2018.05.30

(みどりこくやまをかくすやむかえづゆ)

 

いよいよ梅雨の季節だ。梅雨も無ければ野菜が大きくならないし、ダムに水が溜まらない。大事な季節のうつろいである。しかし梅雨も一気に梅雨になるわけでもなく、まだ山に行ける日を諦めてはならない。

 

 

「新緑の稜線に出て風を呑む」 2018.05.14

(しんりょくのりょうせんにでてかぜをのむ)

 

山に登ってようやく稜線に辿りついたとき。よく登りきったという思いとともに、稜線に吹く風がとてもすがすがしく感じることがあります。険しい道であればあるほど、その風は体をやさしく包み、一瞬で私の体に入って浄化してしまいます。それは万能の薬の様に。

 

 

「おばあちゃんちょっと待ってよスミレ咲く」2018.04.25

(おばあちゃんちょっとまってよすみれさく)

 

田舎のおばあちゃんによく墓参りに連れられた。その道すがら田んぼの土手にタチツボスミレが咲いていた。子供の目にもそれはかわいく、しばらく見ていたかった。しかし、小さなヤカン(茶瓶)と花束を持ったおばあちゃんは気づかずに歩いて行く。

 

「沈丁花の匂いを覚えて歳をとり」 2018.03.16

  (じんちょうげのにおいをおぼえてとしをとり)

 

沈丁花の匂いは強烈ですから、どんな人でも幼き頃に嗅いだその匂いは覚えているのではないでしょうか。身体ははっきりと覚えており、今でも幼きころを思い出します。そんな幼い頃の自分もその春にひとつ歳をとって今に至っていることをしみじみ思います。

 

「石仏を造りし人の皆おらず」 2018.03.03

  (せきぶつのつくりしひとのみなおらず)

 

これらの石仏が彫られて300年以上が経っていrます。当時の人はむろんこの世には誰一人いません。誰かが適当に趣味で作ったようなものではなく、信仰に基づいて造られたもので、同類のものは全国に存在します。基本的には病に対する恐れであり、健康長寿を願う気持ちの表れですが、医療が発達した現在では、まったく無用のものでしょうか。人々が信仰を無くして、または忘れて、このような石仏を顧みなくなったのはそう昔のことではないでしょう。世界的に見れば、池の底の泥をかき混ぜて、魑魅魍魎を呼び覚ますようなことをしている人がいるのではないでしょうか。それらが、今の我々に重大な(広義の)病とならんことを祈るのみです。

 

 

「集まりて思いめぐらす神々あり」 2018.02.13

  (あつまりておもいめぐらすかみがみあり)

 

山を歩いていると石祠を見ることがある。山の神であろうか、道祖神であろうか。そのほとんとは、ぽつんとひっそり佇んでいるのだが、まれに多くの石祠が集められていることがある。さしずめ千と千尋の冒頭の場面である。日本人はそのような場所には神がおあすと感じる。石祠があるだでそこが神の世界の入り口のように感じ、そっと手を合わせるのである。神の、または神を祭ることの詳しいことは何も知らないが、日本人は八百万の神々を大事にしてきたと思う。いまでも心の根底にはそれが残っていると思う。さて、日本の八百万の神々は、今後の私たちをどのように導き守ってくれるのだろうか。

 

「枯れ径を辿って陽光の中に居り」 2018.02.08

  (かれみちをたどってひかりのなかにおり)

 

立春の頃、山の木々はまだまだ芽吹いておらず、林床は明るい。春真っ盛りになって新緑が山を覆う頃の木漏れ日もよいが、今頃の冬枯れの空から降り注ぐ日差しもよいものだ。それはストレートで、地面にくっきり木の影が落ち、身体をダイレクトに温めてくれる。

 

「足元の飴板割って蝋梅の花」 2018.02.04

  (あしもとのあめいたわってろうばいのはな)

 

先日登った山で蝋梅(ロウバイ)を見かけた。今年の冬は寒く、山には雪がなかなか消えない。そんな中で、この蝋梅の匂いは嗅いだだけで春を感じる信号が脳内を駆け巡る。氷の張った道をバリバリいわせながらも、ふと見上げると蝋梅が咲いていた。花を見た後は、足元の氷の板が甘い飴のように見えてきた。

 

「福寿草布団をとられて目覚め起き」 2018.01.29

  (ふくじゅそうふとんをとられてめざめおき)

 

昨日出かけた鐘撞堂山には、日当たりのよい南斜面に福寿草があった。おそらく土地の人が植えたものだろう。今年の寒い冬は辛かろうが、風が落ち葉の布団をめくりあげたのか、目覚めたばかりの福寿草が今にも咲きそうな花をもたげていた。

 

「この歳で仲間に贈るはあじろ笠」 2018.01.24

  (このとしでなかまにおくるはあじろかさ)

 

いまのところ体が動くから山にも登れるが、もっと動けなくなってきたらどうしようかと考える。最近テレビで竹細工の工房が話題になっていた。籠、笠、ランプシェード、はたまたバッグなど。その繊細な技には魅了される。そこで凡人は家で手先を動かしてボケ防止になるかと考えるわけである。かくして、そういう夢を見て、さっそく山仲間に、作るようになったら網代笠をプレゼントすると約束してしまった次第である。

 

「この寒さ男でも真知子巻き似合うなり」2018.01.23

 (このさむさおとこでもまちこまきにあうなり) 

 

昨日雪が降った。関東では久しぶりである。今年はやけに寒い。この寒さなら男が真知子巻きしても、世間の目は許してくれるかも知れない。しかし、これまで妻が私へのプレゼントと買ってくれたいくつかのマフラーは、ことごとく箪笥の中だ。この寒さでも、私はマフラーをするような粋な人間ではない。妻には申し訳ないが、やっぱり箪笥から取り出すことはなかった。

 

「深山のぶなの足元流れの音」2018.01.22

  (しんざんのぶなのあしもとながれのおと) 

 

「きらきらとブナの落とす陽にふと我にかえり」2018.01.22

  (きらきらとぶなのおとすひにふとわれにかえり)

 

「つめたきブナの肌に耳そっとよせてみる」2018.01.22

  (つめたきぶなのはだにみみそっとよせてみる)

 

「ぶな達の間に立って永年の会話聞く」2018.01.22

  (ぶなたちのあいだにたってえいねんのかいわきく)

 

奥武蔵の山に檥峠という場所がある。読みは「ぶなとうげ」である。そこがどうしてぶな峠と呼ばれるかは分からない。ぶななら橅だろうとか。近くの石田波郷の句碑は「山毛欅峠」となっている。この辺りでぶなを見ることはなさそうだが、私の頭にはいくつかのブナへの思いが浮かび上がった。

 

「凍てる朝電車の音妙に高く谷合を駆ける」2018.01.21

  (いてるあさでんしゃのおとみょうにたかくたにあいをかける)

 

「煙上る民家山肌の朝餉時」2018.01.21

  (けむりのぼるみんかやまはだのあさげどき)

 

「落ち葉回る清流の底に山魚探す」2018.01.21

  (おちばのまわるせいりゅうのそこにやまうおさがす)

 

「樹間から差し込む陽霜柱あわや」2018.01.21

  (じゅかんからさしこむひしもばしらあわや)

 

「見通せし山々の空に若人の声高く」2018.01.21

(みとうせしやまやまのそらにわこうどのこえたかく)

 

「まだ咲かぬツツジの道地面見て登る」2018.01.21

  (まださかぬつつじのみちじめんみてのぼる)

 

奥武蔵の山を歩いた。温かかった車を降りた秩父の谷合は凍てっていた。側を通る西武秩父線の車音が妙に高く谷合に響いた。日本の山はどこでもそうだが、電車や道路が行きかう場所からちょっと入れば、そこはもう静かな山里である。陽だまりの傾斜畑を老人が耕し、冷たい清流には魚影がある。人はそこで遊ぶ。

 

「しっとりと濡れし落ち葉の香る径」2018.01.19

  (しっとりとぬれしおちばのかおるみち)

 

「冬鳥の近くに寄りてさえずりし雨後の朝」2018.01.19

  (ふゆどりのちかくによりてさえずりしうごのあさ)

 

「風そよともせぬ頂で妻のおにぎりほうばる」2018.01.19

  (かぜそよともせぬいただきでつまのおにぎりほうばる)

 

「人の居ぬ頂で一人写真に入りて笑顔す」2018.01.19

  (ひとのいぬいただきでひとりしゃしんにはいりてえがおす)

 

「家からも見えし白峰に手をのばす」2018.01.19

  (いえからもみえししらねにてをのばす)

 

「草の子も親の屍で冬を越し」2018.01.19

  (くさのこもおやのかばねでふゆをこし)

 

「暖かき朝松の稜に香る香あり」2018.01.19

  (あたたかきあさまつのりょうにかおるかあり)

 

「山に入りても机上思い出し案じる我」2018.01.19

  (やまにはいりてもきじょうおもいだしあんじるわれ)

 

登山は自分のすべてが試されて、残った部分で愉しむ行為である。ルートと位置はこれでよいか。うまく安全に通過できるか。この先どうなっているのだろうか。天気に問題はないか。歩き通せる体力と時間はあるか。食糧は大丈夫か。動物と遭わないか。怪我にどう対処するか。エスケープはどうするか。そんなことをすべて頭に入れておいて、見える山や植物、匂い、鳥の声などを愉しむ行為である。

 

 

 

(五郎峰)

 

コメント(2)

  • 落ち葉のかおり踏みしめて歩むのは気持ちがいいでしょう。私は定型にこだわってしまいますが、自由律もいいですね。 2018/1/23(火) 午前 8:39

  • > agewisdomさん 俳句の言葉を知ってくれば五七五に集束するような気がするのですが、どうも思いついた言葉だけで作ってしまいます。(熊五郎) 2018/1/23(火) 午前 10:06