富岡製糸場を訪れた

投稿日 2016年05月27日

 

うちの奥さまが突然、富岡製糸場を見学したいというので訪問した。

 

なにやら、上毛かるたを順番に読み上げていたら、富岡製糸場を見たくなったという。風流なところもあるものだから、うちの皇女と思ってもみた。

 

上毛かるたでは、

 

(に).....「日本で最初の富岡製糸」

 

とある。

富岡製糸1.jpg

富岡製糸場の入場券とパンフレット

今でも工場内はいたるところで改修工事中

どんどん見学範囲が広がっているようだ

操糸の実演はみごと

 

 

この製糸場については世界遺産前後、いろいろ解説されていると思うが、やはり現地を訪れてみると、いかに明治初期の日本が製糸という産業に力を入れようとしていたかがよく分かった。

 

ガイドツアーなど、いろいろ説明を聞くと、それまで農家の一仕事であった製糸を、単に工場を建設して、機械化と規模によって生産力アップを狙っていたのではなく、これからの日本の主要産業の技術の発信基地としてリードしていく取り組みとしての意気込みが感じられる。

富岡製糸2.jpg

富岡製糸場 東置繭場入り口アーチの要石「明治五年」とある

 

フランス人のブリュナーを製糸技師として高額の給料で迎え、何も無いところから生産操業まで指導を受けたようだ。

 

実際、まだ富岡に製糸場を建設することも決まっていないところから、ブリュナーに場所の選定まで任せている。

 

富岡が選ばれたのは、

昔から桑、質のよい繭の生産が行われていた

鏑川に近い(排水面だと思う)

広い土地が空いていた

高崎で石炭(亜炭)がとれた

よい水の用水がすでにあった

地元の同意があった

 

 

製糸の女工と言えば野麦峠で有名な諏訪の製糸工場での悲惨な物語のイメージが強烈だ。しかし富岡製糸場では、女工の給料は歩合制で、能力が高ければ給料もよかったという。だから富岡では女工と言わず工女と言っている。ここに女性たちのプライドを感じる。きつい労働を強いて、単に生産量を上げるために作られた工場ではないのだ。

富岡製糸3.jpg

富岡製糸場 東置繭場

繭球の乾燥保管施設

風通しがよいように窓が多い

木骨煉瓦造

基礎石は富岡小幡産 今でも全く沈み込みやゆがみが無いとのこと

煉瓦は富岡福島で焼かれた

レンガ積みの目地は下仁田青倉、栗山産の石灰

 

国営の頃は採算がきびしい状況での操業だったようだが、日本人が外国の技術をまじめに学び、それを全国に流布できるよう、創始の製糸工場として始められた。工女も大事にされ、技術立国として立ち上がる日本の姿が当時の人たちにもたのもしく映ったのではないだろうか。

 

このような基礎になる取り組みを重要と捉え、国家の産業の礎となることを明治に入ってまだ浅い明治5年にはじめたということは、このころの指導者や技術者の先見性、心意気を感じずにはおられない。まだ幕末の混乱の影響もあったろうに。


操業開始(明治5年10月)の翌年6月、昭憲皇太后(明治天皇の母親)、皇后が富岡製糸を行啓された。御紋入りの扇子を工女たちに配られたという。

その行啓の際に詠まれた歌、

 

いと車とくもめくりて大御代の富をたすくる道ひらけつつ 

 

この歌が後々まで工女たちの励ましとなったようだ。

 

 

参考

世界遺産 富岡製糸場(Tomioka Seishi Mill)パンフレット 

 

昭憲皇太后と富岡製糸工女のエートス

 

現地ガイドツアー

 

 

 

 

(熊五郎)